「完全なるデジタル化社会」はあくまでも筆者の造語であり、これについては後述で詳しく述べるとして、話を元に戻すが、筆者は一般庶民として「『紙幣制』から『仮想通貨』の時代へと移行」という変化を実感し始めたのは、つい最近から使い始めた「モバイルSuica」がきっかけであった。「今更モバイルSuicaか~」と笑う人もいるかもしれないが、筆者は実態の見えないモノに対しては一貫して否定的な態度を取ってきたが、その理由は極めて単純で、安心感がなかったからである。一方、「紙幣」は実物としてつかめることができ、更に、財布の中に閉じ込めて置くと安心感がある。また、紙幣をもってモノを購入した実際の経験があるため、一種の「客観的な事実」として感覚の中に組み込まれていた。

 

そのため、「紙幣」に対しては何も疑わず、更に、当たり前のように「モノが買える」という、公理のような大前提が生み出されたのである。その感覚は強烈で根強く、例え「ギリシャで預金封鎖」という情報を見かけても、自分が持っている紙幣だけは永遠に機能すると感じてしまうぐらい、確固たる信念となっていた。「人々はなぜ紙幣を認めているのか?」これに対する模範的な答えは、おそらく「政府に対する信用」だと思うが、筆者にいわせれば、一般庶民が紙幣を使っているのは単に、自動化された「習慣」だと考えている。

 

 「モバイルSuica」の使用に対して、最初は躊躇していたが、今はまったく意識せずに使用している。それは、使う頻度が上がるにつれて、すでに筆者の新たな習慣として日常生活に組み込まれたからだろう。しかし、「モバイルSuica」に対して安心感を得られたのは、やはり紙幣、あるいはクレジットカードによるチャージ機能があるからだと考えている。その意味で、その感覚の前提はやはり紙幣と同じだと考えている。

 

 筆者は経済学者ではないため、当然、理論的に「お金」にアプローチすることはできないが、一人の「紙幣」のユーザーとして、経験的な感覚に基づいて「お金」というモノを考察したに過ぎない。しかし、このような「ユーザー体験」は学問的には欠陥だらけかもしれないが、素朴な事実としては価値があると考えている。

 さてと、ここまでは「お金」に対する筆者なりの見解を述べたが、「お金」を「お金」として認識できるのは、単なる「習慣」に過ぎないと述べてきた。そうなると、次の問題を考えてみよう。「ビットコイン」は、果たして「お金」なのか?

 

 上記の問題に対する筆者の答えは非常に簡単である。「ビットコイン」は、現段階ではまだ「お金」として成り立っていない、ということである。

 

 実際にどれぐらいの人々が「ビットコイン」を「お金」として使っているのかはまだ知らないが、仮に膨大な人口が「ビットコイン」を「お金」として使用しているとしても、それはあくまでもほかの社会での「事実」であって、筆者が生きている世界ではまだ「事実」として定着していないのが現実である。しかし、現段階では「お金」ではないからと言って、将来的にも「お金」ではないとは言い切れない。

 

「ビットコイン」の理論は何であれ、今は単純に投資対象として人々が買い取っているのが事実であり、要は、「金」と同様にモノとして扱われているのが現状だと考えている。筆者が述べたように、「お金」を「お金」として認識できるのは、それが「習慣」として日常生活に組み込まれた時である。この話を裏返すと、「お金」を「お金」として認識できない時は、「習慣」自体が成り立たない時、更に言うと従来の日常生活が崩壊した時であるが、事実上、「金本位制」の崩壊をもたらしたのは第一次世界大戦後に起きた世界恐慌であり、それをきっかけに通貨管理制度が生まれたと言っても過言ではない。

 

 要するに、「お金」を「お金」として認識できるのは「習慣」の一貫性、簡単に言うと、いわゆる「お金」とはある地域の「秩序」を図る「尺度」である。つまり、秩序が崩壊すると、「お金」はお金としての価値を失うのである。「ビットコイン」は2008年における金融危機を機として急速に広まったが、もちろん、「ビットコイン」は一種の革命とも言えるかもしれないが、それを裏返すと、世界的に秩序が「乱れて」いるという、赤信号のサインとして捉えることも可能であろう。

 人類の歴史を破壊的な創造と創造的な破壊の繰り返しだと定義すると、「ビットコイン」、更にいうと「仮想通貨」はおそらく、今世紀における「創造的な破壊」として新たな常識を創りだすかもしれない。