「ビットコイン」と言うと、筆者はただ晩御飯を食べながら「ある界隈でとんでもないことが起きてるなぁ~」ぐらいの、束の間の関心しか持たなかった。恐らく、大多数の人々も筆者と同様に、いくら「仮想通貨はこれから世界を変える!」と騒ぎ立てても、「なるほど」と頷くだけであって、本気で「ビットコイン」という新たな「流れ」に身を任せようとは思わないだろう。

 

考えてみれば当たり前のことだが、今までの「お金」に対する感覚は、あくまでもぴらぴらと音を立て、視覚と触覚、そして聴覚を刺激している「紙幣」であっても、それがいきなりデジタル化された実体のない数字として目の前に現れ、更に「信じてください、これはお金です!」と言われても、筆者のような「紙幣時代」の人間にはあまりピンと来ないどころか、逆に「そんなのお金じゃない!」と罵るかもしれない。そして「胡散臭い、詐欺だろう」という一言で、「仮想通貨」をもって騒ぎ立てている連中を冷やかし、それに対するすべての思索を脳裏に封じ込め、再び「日常生活」という従来の枠を維持する方向へと帰着するだろう。

と言うのは、「時代に取り残されるのは意識と価値観であって、肉体ではない」という無意識のうちの大前提が根付いているからかもしれない。事実上、人類は「金本位制」から「紙幣制」へと移行する転換期において、少数の人々を除くほぼ全人類が時代に「取り残された」と言っても過言ではない。そして「紙幣制」へと変わると、人々はいつものように日常生活を営み、まるで人類が誕生した頃から紙幣というモノがあったかのように日々を過ごしてきた。よく「人間は習慣の生き物」と言われているが、人類史の全般を見渡すとある程度納得がいくかもしれない。それは貨幣の歴史に対しても同じことが言えるが、要するに「人類が新しい貨幣に適応する過程」として捉えてもさほど問題にならない、ということである。

 

そして今現在、「紙幣制」から「仮想通貨」の時代へと移行する最中。

この「最中」という言葉を用いると語弊が生じるかもしれないが、「紙幣」というモノが完全に過去の歴史の中に組み込まれていない限り、ある程度正しいのかもしれない。しかし、例えば中国のいくつかの地域においては、「紙幣」というモノ自体が徐々に歴史舞台から姿を消し、その代わりに電子マネーが日常生活の隅々まで浸透し、新たな常識として定着したのである。このような現象がある地域に限って、「紙幣」の歴史は完ぺきに完結したと言えるだろう。

もちろん、中国で流通している電子マネーは、今流行っている「ビットコイン」とは違って、あくまでも中央銀行を土台としたプラットフォーム上でしか成り立たない「仮想通貨」の一種だが、人々に「紙幣離れ」をもたらし、さらにデジタル化された数字を「お金」として認識させた点においては、誰よりも成功したと言えるだろう。そして、このような新常識が定着した後は、容易に次の段階へと移行できるが、つまり――「完全なるデジタル化社会」である。

未完、続き...